納めの大師  終わりの祈りと始まりの気配


納めの大師|終わりの祈りと始まりの気配

12月21日、弘法大師の月命日にあたる「納めの大師」。

京都・東寺をはじめ、全国の弘法大師ゆかりの寺では、この日をもって一年の縁日を締めくくります。露店が並び、熊手や縁起物が売られ、参道には香ばしい匂いと人々の祈りが漂います。

しかし、WABISUKEが見つめたいのは、その賑わいの奥にある「終わりの祈り」の静けさです。

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終わりに手を合わせるということ

私たちは、始まりには祈りを捧げます。願い、誓い、決意を込めて。

けれど「終わり」に手を合わせることは、どれほどあるでしょうか。

納めの大師は、まさにその「終わりに祈る日」。

一年の営みを振り返り、感謝と悔いと、少しの名残惜しさを胸に、静かに手を合わせる。そこには、始まりの祈りとは異なる、深く、柔らかな気配が漂っています。

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熊手と「拾い集める」祈り

縁起物として知られる熊手は、「福をかき集める」象徴。

納めの大師では、来年の福を願うと同時に、今年の福を拾い集めるような気持ちで熊手を手に取る人もいます。

それは、見過ごしていた小さな幸せや、誰かの優しさ、ふとした偶然の出会いを、そっと胸に抱き直すような行為。

WABISUKEのものづくりもまた、そうした「拾い集める祈り」に似ています。日々の中に埋もれた美しさを、そっと掬い上げ、形にする。使い古された布の手触り、擦れた金具の光、祖母の記憶に残る色。それらを拾い集めて、未来へと手渡す。

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空間に宿る「終わりの気配」

納めの大師の夜、寺の境内には、灯籠の灯りが揺れています。

人の声が遠ざかり、露店が片付けられ、冷たい空気が肌を刺す頃、そこに、終わりの気配が満ちていきます。

それは、寂しさではなく、静けさ。

それは、空虚ではなく、余白。

WABISUKEの空間設計においても、「終わりの気配」をどう扱うかは重要なテーマです。使い終えた道具の置き方、灯りを落とすタイミング、誰もいない時間帯の空間の表情。それらすべてが、祈りのように空間に宿ります。

終わりを美しく閉じること。それは、始まりを美しく迎えるための準備でもあります。

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終わりの中にある始まり

納めの大師は、「終わりの祈り」であると同時に、「始まりの気配」を孕んだ日でもあります。

年の瀬に向かうこの時期、人々は来年の手帳を買い、年賀状を書き、しめ縄を準備します。終わりの祈りのすぐ隣に、始まりの準備がある。

この「あわい」にこそ、WABISUKEの詩的な感性が宿ります。

終わりと始まりは、対立するものではなく、連続するもの。

祈りとは、時間の節目に立ち、見えないものに手を伸ばす行為。

この12月21日、どうか一度、手を合わせてみてください。

今年という時間に、そっと「ありがとう」を。

そして、来たる時間に、静かに「ようこそ」を。