短編小説『色なき花』

短編小説『色なき花』
京都・嵯峨野。霧の降る朝、染師・花音(かのん)は、白無垢の布を抱えて古寺を訪れた。依頼はただ一つ——「空を染めてほしい」。
寺の庭には、色を拒むような静寂があった。紅葉はすでに散り、苔は眠り、風だけが通り過ぎる。出迎えたのは、名もなき老僧・白蓮(びゃくれん)。彼は言葉少なく、ただ庭を掃いていた。
「色とは、目に見えるものではない」
白蓮の声は、風のように淡かった。
花音は戸惑いながらも、寺に滞在することを決める。彼女は色を探す者だった。藍の深さ、紅の温もり、墨の余韻——それらを布に宿すことで、人の記憶を染めてきた。
だがこの寺には、色がなかった。いや、色が「見えなかった」のだ。
ある夜、花音は夢を見る。夢の中で、風が語る。
「色は空の記憶。空は色の余白。」
目覚めた朝、彼女は庭の落ち葉を拾い、雨のしずくを集める。染料は使わず、ただ自然の時間と沈黙を布に染み込ませていく。布は、何色でもあり、何色でもない。光の角度で変わり、見る者の心で揺れる。
白蓮はその布を見て、微笑んだ。
「これは、色なき花。空即是色。」
花音は初めて、色を「見る」のではなく「聴く」ことを知った。
その布は、WABISUKEの茶室に飾られた。訪れる者は皆、色を問う。
そして、誰もが違う色を語る。