静けさの中に息づく神話 『日本書記』と詩的なるもの

静けさの中に息づく神話──『日本書紀』と詩的なるもの
千年の時を越えて、言葉はなお、風のように私たちの耳元をくすぐる。『日本書紀』──それはただの歴史書ではない。神々と人々が織りなす詩的な宇宙の記録であり、日本という国の精神的な骨格を形づくる、静かなる礎である。
この書は、奈良時代の養老四年(720年)に完成したとされる。舎人親王らによって編纂された全三十巻の大作は、神代から持統天皇までの歴史を、神話と史実を織り交ぜながら語っていく。だがその語り口は、単なる年代記や政治記録とは異なる。そこには、和歌のような余白と響き、そして多層的な視点が息づいている。
はじまりの章──天地のひらけるとき。
「天地初めて発(ひら)けし時、高天原に成りませる神の名は…」
この冒頭の一節は、まるで朝霧の中に差し込む光のように、静かに世界の誕生を告げる。音もなく、色もなく、ただ「ひらける」という言葉だけが、宇宙の胎動を伝えてくる。『日本書紀』は、神代の物語から始まり、天皇の系譜を通して日本という国の精神的な構造を描いていく。だがその構造は、直線的な時間軸ではなく、円環的で、重層的で、詩的である。
特筆すべきは、その構成のあり方である。『日本書紀』は、しばしば「一書に曰く」として複数の説を併記する。これは、真実を一つに定めるのではなく、異なる視点や伝承を重ね合わせることで、読者に“選ぶ余白”を与えているのだ。まるで異なる旋律が重なり合う雅楽のように、複数の声が共鳴し、ひとつの世界観を立ち上げていく。
この構造は、WABISUKEが大切にする「静けさの中の響き」とも深く通じている。確定された意味よりも、漂う余韻。断定よりも、問いかけ。意味を押しつけるのではなく、読者の内側にある感性と響き合うように、そっと語りかける。『日本書紀』は、まさにそのような詩的な構造を持つ歴史書なのである。
また、天皇の物語に宿る哲学も見逃せない。天皇の系譜は、単なる血統の記録ではない。そこには、政治と美、秩序と混沌、信仰と現実のあわいが描かれている。たとえば推古天皇──日本初の女性天皇として記された彼女の章には、仏教の受容と文化の転換が静かに息づいている。聖徳太子との協働、十七条憲法の制定、遣隋使の派遣──それらはすべて、時代のうねりの中で生まれた美と秩序の試みである。
その記述は、まるで季節が移ろうように、柔らかく、しかし確かに時代の変化を伝えてくる。歴史とは、力の記録であると同時に、美の記録でもある。『日本書紀』は、その両者を繊細に編み込んでいる。政治的な出来事も、神話的な語りも、すべてが一つの詩のように響き合い、読む者の心に静かな波紋を広げていく。
そして今、私たちが『日本書紀』を読むとき、それは過去を知るためだけではない。むしろ、未来を静かに見つめるための鏡となる。神々の語り、天皇の決断、そして民の暮らし──それらは、現代の私たちに「どのように生きるか」を問いかけてくる。変化の時代において、何を守り、何を手放すのか。どのように美と秩序を紡ぎ直すのか。『日本書紀』は、そうした問いを静かに差し出してくれる。
WABISUKEが描く茶の時間、静かな色彩、詩的な言葉──それらはすべて、『日本書紀』の精神と響き合っている。歴史とは、遠いものではなく、私たちの呼吸の中にあるもの。そしてその呼吸は、詩となり、物語となって、次の千年へと受け継がれていく。
『日本書紀』を読むということは、過去を懐かしむことではない。それは、今という時代において、どのように美しく、静かに、そして力強く生きるかを考えること。神話の声に耳を澄ませ、歴史の余白に心を遊ばせること。そこに、私たちの未来を照らす光がある。