『今は昔』の魔法 『今昔物語集』が語る、千年のささやき

「今は昔」の魔法──『今昔物語集』が語る、千年のささやき
「今は昔」──この言葉で始まる物語たちは、まるで時の襞に隠れた小さな声のように、私たちに語りかけてきます。
『今昔物語集』は、平安時代末期に成立したとされる説話集です。全31巻のうち現存するのは28巻で、千篇以上の物語が収められています。舞台はインド(天竺)、中国(震旦)、そして日本(本朝)の三つの世界。仏教の教えを伝える説話から、庶民の暮らしや奇怪な出来事、滑稽なエピソードまで、多様な物語が織り込まれています。
この物語集は、単なる歴史資料ではありません。むしろ、現代の私たちが忘れかけている「語り」の力、そして人間の本質に迫るような鋭い観察眼とユーモアに満ちています。
なぜ今、『今昔物語集』なのか?
千年の時を超えて、なぜ今この古典が再び注目されるのでしょうか。
それは、そこに描かれている人間の姿が、驚くほど現代的だからです。欲望、嫉妬、信仰、笑い、哀しみ──『今昔物語集』に登場する人々は、私たちと同じように悩み、笑い、時に失敗しながら生きています。
たとえば、以下のような物語があります。
• 天狗が仏に化けて木の上に現れる話(巻20第3話)
ある僧が修行中、木の上に現れた仏に拝もうとしますが、実はそれは天狗の化けた姿。信仰心を試すようなこの話は、信じることと疑うことのあわいを描いています。
• 芋粥を飽きるほど食べたいと願う五位の話(巻26第17話)
貧しい五位が「一度でいいから芋粥を腹いっぱい食べたい」と願い、ついにその夢が叶うのですが、いざ目の前にすると食欲が失せてしまうという、なんとも人間らしい話です。
• 琵琶の名器「玄象」を鬼が奏でる怪異譚(巻24第24話)
名器「玄象」が鬼に奪われ、夜な夜な美しい音色を奏でるという幻想的な話。音楽と怪異、そして人間の欲望が交錯する一篇です。
これらの物語は、単なる昔話ではなく、現代の文学や創作にも大きな影響を与えています。たとえば、芥川龍之介の『鼻』や『芋粥』は、『今昔物語集』の説話をもとに再構成された作品です。芥川は、説話の中にある人間の滑稽さや哀しさを鋭く抽出し、近代文学として昇華させました。
若い読者へ──「かわいい」説話のすすめ
WABISUKEの読者層は、伝統文化に親しみながらも、現代的な感性を持つ若い世代が多いのではないでしょうか。そんな読者に向けて、『今昔物語集』をもっと身近に感じてもらうための切り口をいくつかご紹介します。
• 「天狗って、実はちょっとドジ?」
天狗が仏に化けて失敗する話を、マンガ風に描いてみる。天狗の表情や動きにユーモアを加えることで、親しみやすいキャラクターに。
• 「芋粥ってそんなに憧れの食べ物だったの?」
平安時代の食文化を、イラスト付きで解説。芋粥のレシピを現代風にアレンジして紹介するのも面白いかもしれません。
• 「竜と僧の友情物語」
巻20第11話では、竜が僧に仏法を説くという幻想的な話が語られます。これを絵本風に再構成すれば、子どもから大人まで楽しめるコンテンツになります。
説話の中には、動物、妖怪、からくり人形、幽霊など、ビジュアル化しやすい要素が豊富にあります。イラストや短い詩を添えることで、物語の世界観をより深く、感覚的に伝えることができます。
また、物語の結末をあえて描かず、読者に想像を委ねる「余白」を残すことで、WABISUKEらしい詩的な表現にもつながります。
静けさの中のユーモア──WABISUKEとの共鳴
『今昔物語集』には、静けさと滑稽さが同居しています。
それはまるで、茶室の中でふと笑いがこぼれるような瞬間。張り詰めた空気の中に、ふとした人間らしさが滲み出る。そうした「間」や「余白」は、WABISUKEが大切にしている美意識とも響き合います。
たとえば、ある僧が修行中に幻覚を見てしまう話や、狐に化かされて踊り続ける男の話など、どこかユーモラスで、しかしどこか切ない。そうした物語は、現代の私たちにも「生きるとは何か」「信じるとは何か」と問いかけてきます。
WABISUKEが目指すのは、単なる懐古趣味ではなく、「伝統を生きた創造として再解釈すること」。
『今昔物語集』は、そのための豊かな素材庫であり、千年前の人々と今を生きる私たちをつなぐ、見えない橋のような存在です。
おわりに──語り継ぐということ
『今昔物語集』の魅力は、語りのリズムにあります。「今は昔、あるところに──」という語り口は、聞き手の想像力を刺激し、物語の世界へと誘います。
この語りの力を、現代のメディアや表現にどう活かすか。
ZINE、ブログ、イラスト、動画、あるいはポッドキャスト。
WABISUKEの活動の中で、『今昔物語集』のエッセンスを取り入れることで、千年の物語が新たなかたちで息を吹き返すかもしれません。
物語は、語り継がれることで生き続けます。
そしてその語り手は、必ずしも僧や貴族である必要はありません。
今を生きる私たち一人ひとりが、語り手となり、聞き手となることで、物語はまた新たな「今」を得るのです。