茶杓の孤独  誰にも語られない竹の記憶

茶杓の孤独──誰にも語られない竹の記憶

茶杓というのは、奇妙な道具だ。
細くて、軽くて、言葉を持たない。
でも、茶の湯の中では、確かにその存在が必要とされている。

僕はときどき、茶杓のことを考える。
それは、誰にも気づかれずに茶入から抹茶をすくい、
茶碗の縁にそっと置かれるだけの存在。
音もなく、主張もなく、ただそこにいる。

茶杓には孤独がある。
それは、誰かに見捨てられた孤独ではなく、
誰にも触れられない静かな孤独だ。
まるで、深夜の図書館の隅に置かれた古い辞書のような。

ある日、僕は茶会で竹の茶杓を見た。
その表面には、細かな節があって、
光の加減で少しだけ青みがかっていた。
亭主はそれを「月影」と呼んでいた。
僕はその名前が気に入った。

茶杓は、竹から削られる。
職人が一本一本、手で削り、火で曲げ、
その形に命を吹き込む。
でも、その命は、誰にも語られない。

僕はときどき、茶杓に話しかける。
「君は、寂しくないのか?」と。
茶杓は何も答えない。
ただ、そこにあるだけだ。

茶杓の孤独は、僕の孤独と少し似ている。
誰かに必要とされているけれど、
その必要性が言葉にならない。
それは、ジャズのベースラインにも似ているし、
古い映画の背景音にも似ている。

茶杓は、茶碗の縁に置かれるとき、
「ことん」と小さな音を立てる。
その音は、まるで誰かが遠くでため息をついたような響きだ。

僕はその音を聞くたびに、
茶杓の孤独が少しだけ僕の中に染み込んでくる。
それは、静かな共鳴だ。

茶杓の孤独は、言葉にならない。
でも、確かにそこにある。
それは、僕がまだ言葉にできない何かだ。

 

※本記事は、茶の湯や日本文化に触れた個人的な体験と感覚をもとに綴ったエッセイです。歴史的・宗教的・流派的な解釈とは異なる場合がありますこと、あらかじめご了承ください。


 

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