YOASOBIと『朧月夜』 物語と余白のあいだで

 

YOASOBIと「朧月夜」:物語と余白のあいだで

「夜に駆ける」
その疾走感の裏にあるのは、静かな痛み。
YOASOBIの音楽は、ただのポップじゃない。
それは、物語の余白を音にしたもの。

たとえば、月が雲に隠れて、ぼんやりと光る夜。
その「朧月夜」のように、はっきりとは見えないけれど、
確かにそこにある感情。
YOASOBIの音楽は、そんな“見えないもの”を聴かせてくれる。


YOASOBIの物語性と侘び寂びの共鳴

侘び寂びって、静けさとか孤独とか、ちょっと難しそうに聞こえる。
でもそれは、決して遠い美学じゃない。
むしろ、YOASOBIの音楽の中に、自然と息づいている。

・「夜に駆ける」=死と生の境界。侘び寂びの“儚さ”と重なる。
小説『タナトスの誘惑』を原作にしたこの曲は、
生きることの痛みと、死に惹かれる心の揺らぎを描く。
その切なさは、まるで散り際の桜のように美しい。

・「群青」=夢と現実の狭間。侘び寂びの“孤独の肯定”。
自分の色を探し続ける若者の葛藤と希望。
その不完全さを抱きしめるようなメロディは、
孤独を否定せず、そっと寄り添う。

・「ハルジオン」=失われたものへの想い。侘び寂びの“残響”。
もう戻らない日々、言えなかった言葉。
それでも、春の雑草のように咲く想いがある。
その余韻が、心の奥に静かに残る。

YOASOBIは、小説を音楽にする。
WABISUKEは、季語や色名を詩にする。
どちらも、「言葉の奥にある感情」をすくい上げるメディア。
目に見えないものを、音や言葉でそっと差し出す。
それは、現代の“物語る力”のかたちかもしれない。


若者に伝えたい侘び寂び

YOASOBIの曲を聴いて泣いた夜。
その涙は、侘び寂びの“静かな肯定”かもしれない。
完璧じゃない日々を、物語にしてくれる。
それって、WABISUKEが目指す「日常の詩」と同じ。

たとえば、雨上がりの匂い。
誰かとすれ違ったときの、ふとした記憶。
スマホの画面越しに見た、月の写真。
そういう何気ない瞬間に、侘び寂びは宿る。

侘び寂びは、古いものじゃない。
それは、今を生きる若者の中にも、ちゃんとある。
YOASOBIの音楽が、それを教えてくれる。
「悲しい」や「寂しい」を、ただネガティブに終わらせない。
むしろ、それを抱えて生きることの美しさを、
物語と音で伝えてくれる。


「朧月夜」のような感情を、言葉にする

WABISUKEが描きたいのは、
そうした“言葉にならない感情”の輪郭。
たとえば、「朧月夜」という季語のように、
はっきりしないけれど、確かにそこにあるもの。

YOASOBIの音楽もまた、
明確な答えを提示するのではなく、
聴く人それぞれの記憶や感情に、そっと火を灯す。
その“余白”こそが、侘び寂びの本質なのかもしれない。


物語と余白のあいだで

YOASOBIの音楽を聴くこと。
それは、物語の中に自分を重ねること。
そして、物語の“余白”に、自分の感情を見つけること。

WABISUKEが目指すのも、そんな体験だ。
季語や色名、日常の風景を通して、
読む人の中にある“記憶”や“感情”を呼び起こす。

YOASOBIとWABISUKE。
ジャンルは違っても、
どちらも「今を生きる侘び寂び」を伝えるメディアでありたい。

その先にあるのは、
完璧じゃない日々を、美しく肯定する力。
そして、誰かの心にそっと寄り添う、
「朧月夜」のような詩の灯り。


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