ラジカセとカセットテープ 音の風景が、記憶を巻き戻す

ラジカセとカセットテープ
― 音の風景が、記憶を巻き戻す ―
「カチャッ」という音がした瞬間、空気が少しだけ変わる。
再生ボタンを押す指先に、ほんの少しの緊張と期待が宿る。
ラジカセから流れてくるのは、ただの音楽ではない。
それは、誰かの部屋の空気、誰かの午後の記憶、誰かの心の揺れだった。
昭和の時代、ラジカセとカセットテープは、音楽を聴くための道具であると同時に、
「自分だけの世界」をつくるための魔法の装置だった。
音楽を「録る」時代
今では、音楽はストリーミングで聴くもの。
好きな曲を検索して、タップすればすぐに再生される。
けれど昭和の頃、音楽は「録る」ものだった。
FMラジオの前に座り、お気に入りの曲が流れるのを待つ。
DJの声がかぶらないよう、絶妙なタイミングで録音ボタンを押す。
その緊張感と集中力は、まるで職人のようだった。
録音に成功したときの喜び。
失敗して、次の週まで待つしかなかった悔しさ。
それらすべてが、音楽との関係を深くしてくれた。
カセットテープという「記憶装置」
カセットテープは、ただの音の記録媒体ではなかった。
そこには、録音した日の空気、部屋の匂い、誰かの声が混ざっていた。
テープのラベルに手書きで曲名を書き込む。
「マイベストテープ」と名付けたその一本は、
自分だけのプレイリストであり、心のアルバムだった。
友達に貸したり、好きな人に渡したり。
カセットテープは、音楽を通じたコミュニケーションの道具でもあった。
「この曲、君に聴いてほしい」
そんな気持ちを、テープに込めて渡す。
それは、言葉よりも深い告白だったのかもしれない。
ラジカセという「音の窓」
ラジカセは、部屋の中に世界を呼び込む窓だった。
ラジオから流れるニュース、深夜番組、アイドルの声。
それらすべてが、ラジカセを通して部屋に届いた。
録音も再生も、すべてが手動。
ボタンを押す感触、テープが回る音、
時にはテープが絡まってしまうトラブルもあった。
でもその不完全さが、かえって愛おしかった。
ラジカセは、音楽を「操作する楽しさ」を教えてくれた。
ダイヤルを回し、ボタンを押し、テープを入れ替える。
その一つひとつの動作が、音楽との距離を縮めてくれた。
自作ラジオ番組という遊び
ラジカセとカセットテープがあれば、誰でもDJになれた。
自分の声を録音し、好きな曲を流し、架空のゲストと対談する。
「こんにちは、○○ラジオです」
そんな一言から始まる、自分だけの番組。
家族の声が入ってしまったり、電話の音が混ざったり。
それも含めて「自分の世界」だった。
録音の失敗も、編集の工夫も、すべてが創造の一部だった。
今思えば、あの遊びは「物語をつくる練習」だったのかもしれない。
音楽と声を組み合わせて、自分の世界を語る。
それは、今のポッドキャストやYouTubeに通じる感覚だ。
音の風景が、記憶を巻き戻す
カセットテープを再生すると、
音楽だけでなく、記憶が巻き戻される。
あの部屋の匂い。
窓の外の夕焼け。
誰かと笑った声。
誰かに言えなかった言葉。
ラジカセとカセットテープは、
音楽を聴くための道具であると同時に、
記憶を保存する装置だった。
いま、もう一度「カチャッ」と音を鳴らしてみる
現代の音楽は、便利で、速くて、きれいだ。
けれど、ラジカセの「カチャッ」という音には、
便利さでは測れないぬくもりがある。
カセットテープのノイズ混じりの音には、
完璧ではないからこそ宿る、感情の揺れがある。
もし、今あなたの手元にラジカセがあったら。
もし、一本のカセットテープがあったら。
そこに、どんな音を録音しますか。
誰に聴かせたいですか。
どんな気持ちを込めますか。
ラジカセとカセットテープは、音楽を聴く道具ではなく、
記憶を紡ぐ道具だった。
その「カチャッ」という音の向こうに、
私たちは何度でも、あの頃の自分に会いに行けるのです。