板に祈る 棟方志功と"魂のかたち"

板に祈る ― 棟方志功と“魂のかたち”
墨一色の世界に、なぜこれほどの熱が宿るのか。
棟方志功(むなかた しこう)の板画に触れるたび、私は「彫る」という行為が、祈りに近いものだと感じます。彼の作品には、言葉を超えた力が宿っており、見る者の心を深く揺さぶります。
棟方は、1903年、青森県青森市に生まれました。幼い頃から絵を描くことが好きで、極度の近視に悩まされながらも、絵筆を手放すことはありませんでした。青年期にはゴッホに強く憧れ、「わだばゴッホになる(私はゴッホになる)」と叫んだという逸話は、今も多くの人の心に残っています。
この言葉は、単なる夢や野望ではなく、彼の芸術に対する真摯な姿勢と、魂を削るような創作への覚悟を象徴しています。
板画という“いのち”
棟方は、自らの作品を「版画」ではなく「板画」と呼びました。そこには、単なる印刷技法としての版画ではなく、木の板そのものと向き合い、命を吹き込むように彫るという、彼独自の哲学が込められています。
木の板に墨をのせ、刃を入れる。その一刀一刀が、仏への祈りであり、自然への畏敬であり、人間の営みへの賛歌でもあります。彼にとって板画とは、単なる視覚表現ではなく、精神の深奥に触れるための行為だったのです。
代表作の一つ《釈迦十大弟子》では、仏たちのまなざしが、墨の濃淡と彫りの深さによって浮かび上がります。そこには、静けさと力強さが同居し、観る者の心に深い余韻を残します。それは、ただの絵ではありません。まさに“魂のかたち”と呼ぶにふさわしい存在感を放っています。
民藝とともに歩んだ道
棟方志功の芸術は、民藝運動との出会いによって大きく花開きました。柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司といった民藝の思想家や工芸家たちとの交流は、彼の創作に深い影響を与えました。
民藝運動が掲げた「用の美」、すなわち日常の中にこそ真の美があるという思想に、棟方は強く共鳴しました。彼の板画は、まさにその具現化です。仏教や神道、自然、女性、日々の暮らしといった題材を通して、彼は「生きた美」を彫り出しました。
また、棟方は書や倭画(やまとえ)にも取り組み、墨と筆による表現の可能性を広げていきました。彼の書は、力強くもどこか詩的で、言葉そのものが躍動しているかのようです。装幀や包装紙のデザインにも携わり、芸術と生活の境界を軽やかに越えていきました。
墨の中の季節
棟方の作品には、季節の気配が漂っています。たとえば《大和し美し》という作品には、春の風が吹いているように感じられます。墨の濃淡が、まるで桜の花びらのように舞い、画面にやわらかな光と影を生み出しています。
彼の板画には、明確な色彩はありません。しかし、墨の中にこそ、春の霞、夏の陽炎、秋の落葉、冬の静寂が宿っているのです。余白の取り方、線の勢い、彫りの深さ。それらすべてが、季節のうつろいを語っています。
私たちが日々の暮らしの中で感じる「季語」や「色名」に込められた情緒と、棟方の板画に漂う“墨の季節”は、どこかで密やかに響き合っているように思えてなりません。
若い世代へ ― 墨の力を、もう一度
棟方志功の作品は、決して難解なものではありません。むしろ、現代の私たちが忘れかけている「本物の感触」が、そこにはあります。墨の匂い、木の手触り、刃が板に食い込む音。すべてが、五感を通して私たちに語りかけてくるのです。
デジタルが当たり前になった今だからこそ、棟方のように「手で彫る」「墨で描く」という行為の重みが、より鮮やかに感じられます。
もし、あなたが何かを表現したいと思ったなら、まずは紙に墨をのせてみてください。言葉より先に、祈りが動き出すかもしれません。棟方がそうであったように、表現とは、技術や理屈の前に「心の叫び」から始まるものなのです。
おわりに
棟方志功の板画は、今もなお多くの人々の心を打ち続けています。それは、彼の作品が単なる美術品ではなく、「生きた祈り」であり、「魂の記録」だからです。
私たちが日々の暮らしの中で見落としがちな美しさや、言葉にできない想いを、棟方は板の上に刻み続けました。その姿勢は、時代を越えて、今を生きる私たちにも静かに問いかけてきます。
「あなたは、何に祈りますか」
棟方志功の板画は、そんな問いを私たちに投げかけながら、今日も静かに佇んでいます。