こたつとみかんとテレビの夜

こたつとみかんとテレビの夜
―暖かさの中にあった、家族の姿―
冬の夜。窓の外は
冷たい風が吹いているのに、部屋の中は不思議と
温かい。
こたつという「島」
こたつは、冬の家の中心だった。
部屋のどこにいても寒いのに、こたつの中だけは別世界。
足を入れた瞬間、ほっとする。その居心地の良さに気づい
て、家族が自然と集まってくる。
こたつの上には、みかんのかご。
新聞、リモコン、誰かの仕事、誰かの編み物。すべてが雑然と並びながら
も、そこには秩序があった。こたつ
は、家族の「島」だった。
みかんという「共通言語」
あったかくて、もちろんみかんが食べたくなる。
皮をむく音、甘い香り、手に広がる温もり。
みかんは、冬の共通言語だった。
誰かがむいてくれたみかんを、黙って受け止め。
自分がむいたみかんを、そっと隣に差し出す。
言葉がなくても、そこにはやさしさがあった。
手が黄色くなるほど食べた冬。
箱で買ったみかんが、どんどんやっていくのが楽しかった。
みかんの皮を丸めて、こたつの中で遊んでいます
。
テレビという「窓」
昭和の夜、テレビは家族の窓だった。
ニュース、歌番組、ドラマ、ミックス。
どれもが、家族の会話のきっかけになった。
「この人、前も出たよね」
「この歌、好きだったな」
「この場面、泣けるね」
誰かが笑えば、つれて笑って。
誰かが泣いたら、そっと沈黙が流れる。
テレビは、家族の感情をつなぐ装置だった。
チャンネル争いも、今では懐かしい。
兄弟げんかのせいになったこともある。
でも、それもまた「一緒に過ごした証」だった。
こたつの中の「暖かさの共有」
こたつの中では、足がぶつかる。
誰かの足と、誰かの足それが、知らないうちに出会った
。
その「温もりの共有」が、こたつの魔法だった。
言葉にしなくても、つながっている感覚。
家族というもの、目に見えない絆。
こたつの中で眠ってしまう人。
みかんの皮を並べて遊ぶ人。
テレビを見ながら仕事をする人。
それぞれが違うことをしていても、同じ空間にいる。
が、昭和の夜の豊かさだった。
記憶の断片:詩と風景
こたつの中で、足がぶつかる。
みかんの皮が、丸くなる。
テレビの音に、笑いが起きる。
それは、冬の夜に咲いた、家族の花だった。
この詩は、昭和の冬の夜を切り取った記憶の一部。
こたつ、みかん、テレビ
。
今、こたつを囲むということ
現代では、こたつのある家も来た。
エアコンや床暖房が主流になり、こたつは「懐かしいもの」になった。
みかんの消費量も減り、テレビは個人のスマホに置き換わった。
でも、こたつの中にあった「ぬくもりの共有」は、
今でも私たちの記憶の中に生きている。
仮に、今こたつを囲むことができたら。
みかんを手に取り、誰かと同じ番組を見ながら笑えたら
。
こたつとみかんとテレビの夜。
それは、昭和の冬に咲いた、ささやかで確かな幸福の姿
。