旅人のまなざし ー 松尾芭蕉とWABISUKEの詩学

 

旅人のまなざし──松尾芭蕉と、静けさのかたち

ある春の日、京都の町家の梁に、煤けた襖の裏紙がひらりと剥がれ落ちた。
そこに記されていたのは、かすれた墨文字の走り書き。
誰かの手による、季節のことばだった。

「黄昏の 雨にまぎるる 花の声」

その瞬間、私たちは思った。色や言葉は、記録ではなく記憶なのだと。
誰かの暮らしの中で生まれ、風景とともに消えていく。
けれど、確かにそこにあったという痕跡が、今も私たちの心を揺らす。

WABISUKEの創作は、そうした“かすかな美”をすくい上げ、かたちにする営みです。
がま口やポーチ、バッグといった日々の道具に、記憶の色や季節のことばをそっと忍ばせる。
それは、旅の途中で出会う風景のように、使い手の心に残るものを目指す試みでもあります。

芭蕉の旅と、静けさの詩学

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

松尾芭蕉が『奥の細道』の冒頭に記したこの一文は、時の流れを旅人に喩えた、静かで深い哲学の響きを持っています。
人の一生は、定まることのない旅のようなもの。風に吹かれ、季節に導かれながら、私たちは日々を歩いていく。

芭蕉の旅は、ただの移動ではありませんでした。
彼は、風景の中に身を置き、自然と一体化することで、言葉にならない感情や気配を句に刻みました。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

この一句に宿るのは、音のない岩と、命の声である蝉の対話。
静けさの中にこそ、最も深い響きがある──芭蕉はそう信じていたのかもしれません。

色は、読むもの。そして、持ち歩くもの

WABISUKEの色は、手に取るものでもあり、読むことで感じるものでもあります。
たとえば、「青鈍(あおにび)」という色名には、曇り空のような静けさと、時を経た金属のような深みが宿っています。
「紅掛空色(べにかけそらいろ)」には、夕暮れの空ににじむ朱の気配が漂います。

こうした色は、
ブログでその背景にある季節や記憶を、詩的なことばで綴っています。
読むことで感じる色。持ち歩くことで、ふとした瞬間に思い出す風景。
それは、芭蕉の句がそうであったように、使い手の中に静かに響くものです。

余白に宿るもの

芭蕉の俳句には、語られないものが多くあります。
十七音という制約の中で、彼はすべてを語ることを避け、むしろ“余白”にこそ詩の力が宿ると信じていました。

WABISUKEの表現もまた、余白を大切にしています。
たとえば、がま口の内布に使う色や柄は、あえて控えめに。
ポーチの形も、手に馴染むように設計しながら、使い方を限定しない自由さを残しています。
語りすぎず、説明しすぎず、使い手が自分の物語を重ねられるように──
それが、私たちの“静けさのかたち”です。

不易流行と、百年先の使い手へ

芭蕉は「不易流行」という言葉を残しました。
変わらぬものと、変わりゆくもの。その両方を見つめることで、詩の本質に近づこうとしたのです。

WABISUKEもまた、伝統と変化のあわいに立っています。
古い色名や季語をそのまま使うのではなく、今の感性で見つめ直し、
現代の暮らしに響くかたちで届ける。
そこに宿るのは、過去への敬意と、未来へのまなざしです。


WABISUKEの一句

旅の空
朧の色に
名を託す

芭蕉のまなざしに学びながら、季節のことばや色の記憶をたどる旅。
その途中で出会う風景のように、心に残るものを、そっと手のひらに。


このブログは、WABISUKEの製品を手に取ってくださる方々に、もうひとつの“旅”を届けるために綴っています。
がま口の中に忍ばせた色の物語、ポーチの形に込めた余白の哲学──
それらを、芭蕉のまなざしとともに、静かにお楽しみいただけたら嬉しいです。