古事記   言葉に宿る神々の記憶



古事記──言葉に宿る神々の記憶

静かな朝、墨色の空に一筋の光が差し込むように、古事記の世界は私たちの心に語りかけてきます。
それは単なる歴史書ではなく、言葉に宿る命の記録。神々の息吹と人々の祈りが、千三百年の時を超えて今もなお、私たちの感性を揺さぶります。

古事記を読むということは、遠い過去の神話を知ることではなく、今を生きる私たちの中にある「日本人の感性」を再発見すること。
その言葉のひとつひとつが、まるで風に揺れる木の葉のように、静かに、しかし確かに、心の奥に触れてくるのです。

古事記とは──語り継がれた神話の織物

古事記は、712年に太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂された、日本最古の歴史書です。
その源には、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物が口伝で記憶していた神話や伝承がありました。彼の記憶は、まるで水面に映る月のように儚くも確かなもの。太安万侶はその語りを筆に写し、変体漢文という独自の文体で綴りました。

この文体は、漢字の音を借りて日本語を表現するという試みであり、後の万葉仮名、そして平仮名の誕生へとつながっていきます。
つまり古事記は、日本語の書き言葉の黎明でもあり、言葉の文化史としても極めて重要な位置を占めています。

古事記は三巻構成で、上巻は天地開闢から神々の誕生、国生み、天孫降臨までの神話を描きます。
中巻では神武天皇の東征から始まる初期の天皇たちの物語が語られ、下巻では応神天皇から推古天皇に至るまでの歴代天皇の系譜が記されています。

しかし、古事記の本質は「歴史の記録」ではなく、「語りの記憶」にあります。
それは、文字にすることで失われるはずだった“声”を、あえて文字に託した試み。
語りのリズム、言葉の響き、沈黙の余白──それらを大切にしながら、神々と人々の物語が紡がれていきます。

日本書紀との違い──誰に語るかで変わる物語

古事記とよく比較されるのが『日本書紀』です。こちらは720年に完成し、主に中国や朝鮮半島などの外国に向けて、日本の正史を伝えるために編纂されたものです。
純漢文で書かれ、編年体という年代順の構成を持ち、より政治的・外交的な意図が強く感じられます。

一方、古事記は紀伝体であり、物語のように神々や天皇の伝記が語られます。
その語り口は、まるで祖母が囲炉裏端で語る昔話のように、温かく、時にユーモラスで、時に神秘的。
たとえば「因幡の白兎」や「出雲の国譲り」など、日本書紀には記されていない神話が古事記には豊かに描かれています。

項目 古事記 日本書紀
編纂年 712年 720年
文体 変体漢文(日本語の音を漢字で表現) 純漢文(中国式)
構成 紀伝体(物語風) 編年体(年代順)
対象 国内向け 外交・国外向け
内容 神話・伝承が豊富 歴代天皇の記録が中心


「語りたい相手が違えば、物語の姿も変わる」
古事記は、内なる日本人の心に語りかける書。日本書紀は、外の世界に日本を示す鏡。
その違いは、言葉の選び方、構成の仕方、そして語られる神々の表情にまで及びます。

言葉の美──神話が紡ぐ詩のような世界

古事記の魅力は、何よりもその言葉の美しさにあります。
イザナギとイザナミが国を生み、アマテラスが天を照らし、スサノオが海を駆ける──それぞれの神話は、自然と人間の営みを重ね合わせながら、詩のように語られます。

その語りは、単なる記録ではなく、感情と哲学が織り込まれた「言霊」の世界。
たとえば、神々の名に込められた意味、行動の象徴性、そして沈黙の余白──それらは、WABISUKEの哲学にも通じる「静けさの中の響き」を感じさせます。

古事記の神話は、自然と共に生きるという日本人の感性を映し出しています。
山や川、風や火、すべてに神が宿るという八百万の神々の世界観は、現代の私たちが忘れかけている「自然との対話」の感覚を呼び覚ましてくれます。

今、古事記を読むということ

現代に生きる私たちが古事記を読むことは、過去と現在をつなぐ橋を渡ること。
それは、忘れられた神々の声に耳を澄ませることであり、言葉の奥にある「日本人の感性」を再発見する旅でもあります。

古事記は、歴史の書でありながら、詩であり、哲学であり、祈りでもある。
その一節一節が、私たちの心に静かに語りかけてくるのです。

そして何より、古事記は「語ること」の力を信じた書物です。
語り継ぐこと、記憶すること、言葉にすること──それらが文化をつなぎ、心をつなぎ、時を超えて響いていく。
WABISUKEが大切にしている「言葉の余白」「詩のような日常」「文化の継承」──そのすべてが、古事記の中に息づいています。

だからこそ、今、あらためて古事記を読むことには意味があります。
それは、過去を懐かしむためではなく、未来を詩的に生きるための、静かな準備なのかもしれません。