WABISUKE × ハイデガーの「存在と器」|静けさの中で、ものは私たちを見つめ返す

──静けさの中で、ものは私たちを見つめ返す


序章 器は、ただの容れ物ではない

WABISUKEというブランドを育てながら、私たちはしばしば「ものとは何か」という問いに立ち返る。

ものは、ただそこに存在するだけなのだろうか。

それとも、人に使われ、触れられ、時間をともにすることで、初めてその意味を深めていくのだろうか。

たとえば、器。

器は形を持つ。

しかし同時に、その内側には何かを受け入れるための空間がある。

水を入れる。
花を生ける。
食べ物を盛る。

何も入っていないときでさえ、その空間は「何かを受け入れる可能性」として静かに存在している。

この「もの」と「人」と「世界」の関係について深く考え続けた哲学者の一人が、20世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーだった。

ハイデガーは『存在と時間』において、人間を世界から切り離された孤立した存在としてではなく、「世界内存在」として考えた。

私たちは、まず世界を外から眺め、その後でものと関係するのではない。

すでに世界の中で暮らし、道具を使い、人と関わり、さまざまな意味の中で生きている。

その視点から改めて身の回りのものを眺めると、普段は見過ごしている「ものの存在」が、少し違って見えてくる。

WABISUKEが大切にしてきた、ものと人との関係。

そのことを考えるために、ハイデガーの哲学は興味深い入口を与えてくれる。


Ⅰ ハイデガーが見つめた「壺」

──器を器にしているものは何か

ハイデガーは1950年の講演「物(Das Ding)」で、一つの壺を取り上げて「物とは何か」を考えている。

壺は、陶工によってつくられる。

土から壁と底が形づくられ、一つの器が生まれる。

しかしハイデガーが注目したのは、土そのものだけではなかった。

壁と底によって囲まれた、その内側。

つまり、壺が何かを受け入れるための「空」に目を向けたのである。

壺は、その空間によって液体を受け入れ、保つことができる。

そして、受け入れたものを再び注ぐことができる。

ここが面白い。

器は、ただ所有するための物体ではない。

受け入れ、保ち、そして差し出す。

その働きの中で、器は人や世界との関係を結んでいく。

空であることは、「何もない」ということではない。

むしろ何かを受け入れることのできる、開かれた状態でもある。

この考え方は、日本文化が大切にしてきた「余白」や「間」を考えるときにも、どこか響くものがある。

もちろん、ハイデガーの「壺」と日本文化の「余白」は同じ思想ではない。

けれど、異なる文化から生まれた二つの視点を重ねてみると、「空いていること」の豊かさが見えてくる。

満たされていないからこそ、受け入れられる。

語り尽くさないからこそ、感じ取れる。

何もないように見える場所にこそ、新しい関係が生まれる可能性がある。


Ⅱ ものは、関係の中で意味を持つ

──使うということが、世界をひらく

『存在と時間』でハイデガーは、道具について考察している。

有名なのが、ハンマーの例である。

私たちは普段、ハンマーを使うときに、

「これは木と金属でできた、一定の重量を持つ物体である」

などと考えてから釘を打つわけではない。

何かをつくるという営みの中で、ハンマーはすでに「使うもの」として存在している。

そこには釘があり、木材があり、つくろうとしているものがあり、それを使う人がいる。

一つの道具は孤立して存在しているのではなく、さまざまなものや目的、人間の行為とのつながりの中で意味を持っている。

この視点を、私たちの日常にあるものへ重ねてみる。

一つのバッグ。

店頭に置かれているとき、それはまだ誰の暮らしにも属していない。

しかし、ある人がそれを選び、使い始める。

財布を入れる。
鍵を入れる。
旅に持っていく。
仕事へ連れていく。
雨の日も、晴れの日も使う。

そうして暮らしとの関係が生まれると、そのバッグは単なる「商品」という言葉だけでは語れなくなっていく。

ものの意味は、ものだけで完結するのではない。

人との関係の中で、少しずつ豊かになっていく。

ハイデガーの道具論を手がかりにすると、そんな当たり前のことが、改めて鮮明に見えてくる。


Ⅲ がま口もまた、小さな「器」である

──何を入れるかによって、意味が変わる

ここで「器」という言葉を、陶器や花器だけではなく、もう少し広く考えてみたい。

何かを受け入れる空間を持ち、人の暮らしと関係を結ぶもの。

その意味では、WABISUKEのがま口やバッグもまた、現代の暮らしの中にある小さな「器」と見ることができる。

がま口を開く。

そこには、小さな空間がある。

その空間に何を入れるかは、使う人によって違う。

小銭を入れる人もいる。

鍵を入れる人もいる。

薬やアクセサリー、小さな思い出の品を入れる人もいるだろう。

バッグも同じだ。

出かけるために必要なものを受け入れ、それを一緒に運ぶ。

そして一日の終わりには、また静かに置かれる。

そう考えると、がま口やバッグは単なる収納用品ではない。

その人の暮らしの一部を、一時的に受け入れる「器」でもある。

空であるからこそ、使う人が意味を与えることができる。

そして、誰が、何を入れ、どこへ持っていくかによって、同じ商品でも少しずつ違った存在になっていく。

そこには、日本文化が大切にしてきた「余白」の感覚とも重なるものがある。

完成された意味を押しつけるのではなく、使う人が入り込む余地を残しておく。

その余地こそが、ものと人との関係を育てていく。


Ⅳ ものは、時間とともに意味を深める

──使われた時間は、ものの中に残っていく

長く使われたものには、不思議な存在感がある。

新品のときにはなかった柔らかさ。

手が触れる場所の変化。

わずかな傷。

色の深まり。

それらは、工場や工房で完成したときには存在しなかったものだ。

使う人との時間によって生まれた表情である。

もちろん、ハイデガー自身が「道具は使い込むほど美しくなる」と論じたわけではない。

しかし、ものを孤立した物体ではなく、人間の営みや世界との関係の中から考える彼の視点は、長く使われるものについて考える手がかりを与えてくれる。

帆布のバッグが少し柔らかくなる。

がま口の開け閉めが手に馴染む。

布の柄を見るたび、旅先の記憶が蘇る。

その変化は、単なる物理的な経年変化だけではない。

ものと人との間に積み重なった「時間」でもある。

だから、古いものには、新品にはない意味が宿ることがある。

祖母から受け継いだ財布。

長年使った鞄。

何度も旅へ持っていったポーチ。

市場価値だけでは測ることのできない何かが、そこには残っている。

ものは沈黙している。

けれど、ときにその沈黙の中から、私たち自身の記憶が立ち上がってくる。


Ⅴ ものを「資源」だけとして見ない

──便利さの向こう側にあるもの

後期のハイデガーは、近代技術についても深く考察した。

彼が問題にしたのは、単純に「技術は悪い」ということではない。

むしろ、近代技術によって世界を見るとき、自然やものが、いつでも利用できる「資源」としてのみ現れてしまう危険性だった。

森が木材としてだけ見える。

川がエネルギー源としてだけ見える。

土地が開発可能な面積としてだけ見える。

もちろん、人間が自然を利用することそのものを否定することはできない。

問題は、それだけが世界を見る唯一の方法になってしまうことだ。

同じことは、商品についても考えられる。

価格。
機能。
在庫。
効率。
売上。

現代の商いにおいて、それらはすべて重要である。

けれど、ものはそれだけなのだろうか。

誰がつくったのか。

どんな文化から生まれたのか。

なぜその形なのか。

どんな時間を経てきたのか。

そして、これから誰の暮らしへ入っていくのか。

ものには、数字だけでは捉えきれない背景がある。

WABISUKEが文化について文章を書き続ける理由の一つも、そこにある。

商品だけを並べるのではなく、ものの背後にある文化や感性まで伝える。

それによって、ものをもう一度「関係の中にある存在」として見つめ直すことができる。


Ⅵ 日本の「余白」とハイデガーの「物」

──似ているからではなく、違うからこそ対話できる

ここで注意したいことがある。

ハイデガーの哲学と、日本の美意識は同じものではない。

「空」「間」「余白」といった言葉が似ているからといって、両者を一つの思想として扱うことはできない。

歴史も、思想的背景も、問いそのものも違う。

けれど、違うからこそ対話させることができる。

ハイデガーの壺からは、

「物を物たらしめているものは何か」

という問いが生まれる。

日本の余白の文化からは、

「何もないように見える場所に、なぜ私たちは豊かさを感じるのか」

という問いが生まれる。

二つの問いを並べてみる。

すると、現代の暮らしでは見過ごしがちなものが見えてくる。

満たすことだけが豊かさではない。

増やすことだけが価値ではない。

使うことは、消費することと必ずしも同じではない。

ものと長く付き合うこと。

空いている場所を残すこと。

静かな時間を持つこと。

そうした小さな行為の中にも、世界との関係を取り戻す入口がある。


Ⅶ WABISUKEが考える「存在と器」

──ものを売ることから、ものとの関係を届けることへ

「存在と器」。

これはもちろん、ハイデガー自身が使った著作名ではない。

ハイデガーの哲学を手がかりに、WABISUKEが「もの」と「人」の関係について考えるためにつけた、この物語の名前である。

WABISUKEが目指したいのは、ものを単に所有してもらうことではない。

ものとの関係を育ててもらうこと。

選ぶ。
触れる。
使う。
持ち歩く。
手入れする。
そして、いつか思い出になる。

その時間まで含めて、一つのものの物語だと考えたい。

だからこそ、がま口の中にある小さな空間にも意味がある。

まだ何も入っていないその場所には、これから始まる誰かの暮らしが待っている。

それは「空っぽ」なのではない。

まだ決められていない可能性が残されている。

余白とは、完成していないことではない。

人が参加できる場所なのだ。

WABISUKEが大切にしたい「静けさ」もまた、何も起こらない状態ではない。

ものと人が出会い、ゆっくり関係を育てるための余白なのだと思う。


結び──ものは、私たちを見つめ返す

一つのものを、長く使ってみる。

すると、ある瞬間から不思議なことが起こる。

私たちがものを見ているだけではなく、そのものを通して、自分自身の時間を見ていることに気づく。

この傷は、あの日についた。

この色の変化は、長く使った証だ。

このがま口は、あの旅にも持っていった。

ものの中に、自分自身の記憶が映り始める。

そのとき、ものは単なる所有物ではなくなる。

ハイデガーの哲学が私たちに問いかけるのは、身の回りのものを当然の存在として通り過ぎず、もう一度「物とは何か」と考えることなのかもしれない。

そして日本文化もまた、器、道具、余白、間、陰影といったものを通して、ものとの静かな関係を長く育ててきた。

二つは同じではない。

けれど、その二つのあいだに立つことで見えてくるものがある。

ものを大切にするとは、ものだけを大切にすることではない。

そのものと過ごす時間を大切にすること。

その背景にある文化を大切にすること。

そして、そのものによって生まれる人と世界との関係を大切にすること。

WABISUKEにとって「器」とは、何かを入れるためだけの空間ではない。

人の暮らしを受け入れ、時間を受け入れ、記憶を受け入れるための余白である。

がま口を開いたときに現れる、小さな空間。

そこから、まだ知らない誰かの物語が始まる。

器は、存在の入口である。

WABISUKEは、その小さな入口を通して、ものと人と文化が静かにつながる未来を、これからも育てていきたい。

 

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