麻の葉模様の記憶 京都ひとり旅と、がま口の話

麻の葉模様の記憶──京都ひとり旅と、がま口の話
東京で暮らすようになって十年が過ぎた。仕事は忙しく、日々は慌ただしく、気づけば季節の移ろいに目を向ける余裕もなくなっていた。そんなある日、ふとスマホの写真フォルダを眺めていたら、大学時代に訪れた京都の写真が目に留まった。紅葉の嵐山、夜の祇園、そして、なぜか一枚だけ写っていたがま口の写真。あのとき買ったものだったか、誰かが持っていたものだったか、記憶は曖昧だったけれど、なぜかその写真が心に残った。
「京都に行こう」と思ったのは、その翌朝だった。
ひとり旅は久しぶりだった。新幹線の窓から見える景色は、東京の喧騒とは違って、どこか柔らかく、空気が澄んでいるように感じた。京都駅に降り立った瞬間、胸の奥がふわりとほどけるような気がした。
最初に向かったのは三条大橋。鴨川の流れを眺めながら橋を渡り、山科方面へと続く通りを歩く。片側二車線の広い道には車が絶え間なく行き交い、観光地の静けさとは少し違う、生活の気配が漂っていた。
地下鉄の東山駅が見えてきた頃、ふと目に留まったのが「WABISUKE」という名の小さな店だった。ガラス越しに見える布小物の並びが美しく、思わず足を止める。観光地の路地裏にあるような趣ではないけれど、通り沿いの賑やかさの中に、確かな静けさを感じさせる佇まいだった。
店内に入ると、和の布小物が整然と並んでいて、どれも丁寧に作られているのが伝わってくる。目に留まったのは、赤い麻の葉柄のがま口だった。
「麻の葉模様は、魔除けの意味があるんですよ」と、店主の女性が教えてくれた。「昔は赤ちゃんの産着にも使われていたんです。健やかな成長を願って」
がま口を手に取ると、手のひらにすっぽり収まるサイズ感が心地よい。口金の開閉も滑らかで、布の質感は柔らかく、でも芯がある。赤い地に白の幾何学模様が浮かび上がり、どこか懐かしく、でも新しい。
「これ、ください」と言った瞬間、胸の奥に小さな灯がともった気がした。
その日から、がま口は私の旅の相棒になった。お釣りを入れたり、切符をしまったり、時には小さな飴玉を忍ばせたり。使うたびに、WABISUKEの店での会話や、京都の空気がよみがえる。
旅の途中、嵐山で渡月橋を渡ったとき、ポケットからがま口を取り出して、川の流れを眺めながら思った。「この旅は、何かを取り戻すためのものだったのかもしれない」と。
それは、忙しさの中で忘れていた“余白”の感覚。何もしない時間の豊かさ。誰かと話すことの温かさ。そして、自分自身と向き合う静かな時間。
翌朝、早起きして清水寺へ向かった。朝の光が石段を照らし、空気が澄んでいる。観光客もまだ少なく、静かな境内で手を合わせる。願い事はしなかった。ただ、ありがとうと心の中でつぶやいた。
東京に戻る新幹線の中、がま口を膝の上に置いて、旅の記憶を辿った。麻の葉模様は、健やかさの象徴。でも今の私には、心の健やかさこそが必要だったのかもしれない。
WABISUKEのがま口は、ただの雑貨ではない。京都の空気、静かな時間、そして自分自身と向き合った旅の記憶が詰まった、小さな宝物だ。
そして私は、また京都に行くだろう。季節が変わっても、年齢を重ねても、きっとこのがま口を手にして。
それは、私自身の“余白”を思い出すために。
※この文章は、京都の風景や商品を題材にしたフィクションを含むエッセイです。登場人物や体験は創作であり、実在の人物・出来事とは関係ありません。