かるたに学ぶ、言葉のあそび心  ことばを編む、こころを結ぶ


かるたに学ぶ、言葉のあそび心
― ことばを編む、こころを結ぶ ―

「いろはにほへと ちりぬるを」
この一節を口ずさむと、幼いころの冬の記憶がふと蘇ります。
こたつの上に広げられた色とりどりの札。
湯気の立つお茶の湯呑み、家族の笑い声、そして静かに響く読み札の声。
耳を澄ませ、息をひそめ、誰よりも早く手を伸ばす。

かるたは、ただの遊びではありませんでした。
それは、言葉と感性を磨く、冬の小さな修練の場。
そして今思えば、あの時間こそが、言葉の美しさと余白の力を知る原点だったのかもしれません。

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かるたは「ことばの庭」

かるたの魅力は、短い言葉の中に込められたリズム、余白、比喩の妙にあります。
たとえば百人一首の一首、

「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は」
― 平兼盛

この歌に込められた感情の揺らぎ。
「しのぶれど(忍んでいるのに)」という始まりの余韻は、
まるで、がま口の中にそっと忍ばせた手紙のようです。

言葉にしない想いが、かえって強く伝わる。
それは、語られない部分にこそ、真実が宿るという日本語の美学。
かるたは、そうした「ことばの奥行き」を、遊びの中で自然と教えてくれます。

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遊びながら、ことばを育てる

子どもたちがかるたを通して学ぶのは、単なる語彙や知識ではありません。
そこには、五感を通じて育まれる感性があります。

・音を聞き分ける耳
・先を読む集中力
・札を取る瞬発力
・そして、言葉の美しさに触れる心の柔らかさ

たとえば、「あ」の札が読まれた瞬間、頭の中には「あ」から始まる句がいくつも浮かび、
その中から一瞬で正解を選び取る。
これは、まさに「ことばの直感」を鍛える行為です。

そして、札に描かれた絵や文字の美しさに触れることで、視覚的な感性も育まれていきます。

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WABISUKEの名付けに宿る「かるた」の精神

WABISUKEで私たちが大切にしている「詩的な名付け」も、
このかるた的な感性の延長線上にあります。

たとえば「白藤鼠(しらふじねず)」という色名。
それは、春の終わりに咲く白藤の花が、夕暮れの光に溶けていくような、
静かな情景を思わせます。

この色名には、直接的な説明はありません。
けれども、そこにある「余白」が、見る人の記憶や感情を呼び起こすのです。
まるで、かるたの一札のように。

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現代の「かるた」をつくる

WABISUKEでは、日々の暮らしの中にある「ことばの種」を見つけ、育て、形にしています。
それは、色暦であったり、商品名であったり、ブログの一節であったり。

たとえば、こんな現代のかるたがあったらどうでしょう:

・「ゆ」:ゆずの香 ふと立ち止まる 冬の路地
・「ほ」:ほころびも 愛しき記憶 がま口に
・「さ」:さざ波に ほどける想い 夏の終わり
・「ね」:寝ぐせのまま 飛び出した朝の 風の匂い

これらは、単なる言葉遊びではありません。
日々の中にある小さな発見や感情を、五・七・五や短いフレーズに閉じ込めることで、
誰かの心にそっと触れる「札」になるのです。

そして、それを読む人の中で、新たな物語が始まる。
それが、現代の「かるた」の可能性だと私たちは考えています。

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ことばで遊ぶ、ことばと遊ぶ

かるたは、過去の文化ではありません。
それは、今を生きる私たちの感性を育てる道具であり、
言葉と心を結ぶ「遊びの場」なのです。

WABISUKEのブログもまた、そんな「ことばのかるた」のような存在でありたいと願っています。
読者の心にふと触れる札のように、
あるいは、日々の暮らしの中でふと口ずさみたくなるような言葉の断片として、
そっと寄り添う存在でありたい。

言葉は、遊びであり、祈りであり、贈り物。
だからこそ、私たちは今日も、ひとつひとつの言葉を大切に選び、編み、
未来の誰かの心に届く「札」を紡いでいきます。