茶杓と月の距離

茶杓と月の距離
夜の茶室には、昼とは違う種類の静けさがある。 それは、眩しい静けさではなく、延々と眠っている静けさだ
。
茶杓を手に取れる。
細くて、軽くて、どこか当てにならない。でも
、その頼りなさが、逆に安心感を与えてくれる。
茶杓には名前がある。
「夢の浮橋」とか、「時雨の音」とか、そういうの。
僕の中の茶杓にも、名前があるのはたぶん無理。
でも、それは誰にも教えられていない
。
私はふと思う。
この茶杓と、月との距離はどれくらいだろう。物理距離ではなく、もっと安心で
、もっと詩的な距離。
茶を点てる。
湯の広がり、夜の静けさに溶け込んでいく。
茶筅の動きは、まるで月の光を撫でているようだ。
抹茶の表面に浮かぶ泡は、昼よりも深く、静かに揺れている。
私はその泡の一つに、名前をつける。
「月の向こう」
そしてもう一つに、
「君が最後に笑った日」
さっき、誰にも言われない。
言葉になった瞬間に、それは泡のように消えてしまうから。
茶杓を元の位置に戻すとき、僕はそっと目を閉じる。
その瞬間、茶室の空気が少しだけ変わった気がした。
たぶん、月が少しだけ近づいたのだと思う。
あるいは、僕が少しだけ遠ざかったのかもしれない。
茶の湯とは、そういうものものだ。
距離を測るための協議。
目に見えないものとの、静かな対話。
夜の茶室には、まだ月が浮かんでいる。
茶杓は、何も話さない。
でも、僕はその静かの中に、確かに何かを聞いていた気がした。