松と竹のことば 門松に宿る祈りのかたち

松と竹のことば──門松に宿る祈りのかたち
年の瀬が近づくと、街角や商店の軒先、住宅の玄関先に、凛とした佇まいの門松が立ち並び始めます。松の緑、竹の節、しめ縄の張りつめた空気。それらはただの装飾ではなく、古来より続く「神を迎えるためのしるし」として、静かに私たちの暮らしの中に息づいてきました。
門松の起源は、平安時代にまでさかのぼります。当時は「小松引き」と呼ばれる風習があり、元日の早朝に若松を山から引いてきて神に供えることで、新年の無事と豊穣を祈ったといいます。やがてこの風習は、家の門口に松を立てる「門松」へと姿を変えていきました。松は常緑であることから、長寿や不老不死の象徴とされ、冬でも青々としたその姿は、生命力の象徴でもありました。
室町時代になると、門松の意匠に竹が加わります。特に武家社会では、竹のまっすぐに伸びる姿や、節のある構造が「潔さ」や「成長」の象徴として好まれました。竹の先端を斜めに切る「そぎ型」は、槍の穂先を思わせる力強さを持ち、関東を中心に広まりました。一方、関西では竹をまっすぐに切る「寸胴型」が主流で、より穏やかで落ち着いた印象を与えます。こうして門松は、地域ごとの美意識や信仰を映し出す鏡のような存在となっていきました。
門松の本質は、「歳神様(としがみさま)」を迎えるための目印です。歳神様は、正月に各家に降りてきて、その年の豊作や家内安全をもたらす神とされています。門松は、その神を迷わせずに導くための「緑のしるし」なのです。だからこそ、門松は年末のうちに立てられます。一般的には12月26日から28日までに飾るのがよいとされ、29日は「苦(九)」に通じるため避けられ、31日は「一夜飾り」として神様に失礼とされます。こうした暦の感覚もまた、日本人の繊細な信仰心と美意識を物語っています。
門松は、年が明けて「松の内」が終わると片づけられます。関東では1月7日、関西では15日までが松の内とされることが多いです。片づけた門松は、神社などで行われる「どんど焼き」でお焚き上げされ、煙となって天へと還ります。神を迎え、もてなし、見送る──その一連の流れの中に、日本人の「目に見えないものと共に生きる」感性が息づいています。
現代の暮らしでは、門松を立てる家庭は少なくなったかもしれません。けれど、門松の本質は「神を迎える準備」であり、「心を整える儀式」でもあります。たとえば、小さな松の枝を一輪挿しに飾ること。竹の模様の器にお正月料理を盛ること。「迎春」「初春」といった言葉を手紙に添えること。そうした所作のひとつひとつが、現代の門松となり、目に見えないものを迎える“しるし”となるのです。
WABISUKEでは、こうした「迎える」という行為を、日々の営みの中に見出しています。がま口は、日々の記憶を包む器。ZINEは、言葉を迎える余白。どちらも、門松と同じように、何かを迎え入れるためのかたちです。文化を迎える。記憶を迎える。誰かの想いを迎える。そうした静かな所作の積み重ねが、暮らしを詩に変えていきます。
年末の慌ただしさの中でこそ、門松のことを思い出したい。掃除をし、ものを整え、言葉を選び、静かに新しい年を迎える準備をする。そのすべてが、文化を迎える心の準備であり、自分自身の内なる歳神様を迎えるための儀式なのかもしれません。
今年の年の瀬、あなたの暮らしの中にも、小さな「松と竹のことば」を立ててみてください。それは、神を迎えるだけでなく、あなた自身の心を迎えるための、静かな祈りとなるでしょう。