冬至 光と影の境界に立つ日

冬至|光と影の境界に立つ日
一年で最も昼が短く、夜が長い日——冬至。
この日を境に、太陽は再び力を取り戻し、少しずつ昼の時間が伸びていきます。陰が極まり、陽に転ずる。日本の暦において、冬至はただの季節の節目ではなく、目に見えない「境界」に立つ感覚を私たちに思い出させてくれる日です。
陽の気配を待つ、静かな祈り
冬至の日、私たちは柚子湯に浸かり、かぼちゃを食べる。これらの風習は、身体を温め、無病息災を願う実用的な知恵であると同時に、冬の闇の中に小さな「陽」の気配を呼び込む儀式でもあります。
柚子の香りは、冷えた空気の中でひときわ鮮やかに立ち上がり、まるで冬の静寂に差し込む光のよう。湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ柚子の黄色は、まさに「光の種子」。その香りに包まれながら、私たちは知らず知らずのうちに、来たる春の兆しを身体に刻み込んでいるのかもしれません。
光と影の境界を感じるということ
冬至の頃、建物の中に差し込む光は、低く、長く、やわらかい。障子越しに射し込む陽光は、輪郭を曖昧にしながらも、確かにそこにある「今」を照らします。
この時期の光は、夏のように強く主張することはありません。むしろ、影と共にあることで、その存在が際立ちます。影が深いからこそ、光は美しい。これは、空間の設計や暮らしのしつらえにおいても、WABISUKEが大切にしている感覚です。
空間に宿る「陰翳礼讃」
谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で語ったように、日本の美意識は「光」そのものよりも、「影」との関係性に宿ります。冬至はまさに、その感覚を身体で味わう日。
たとえば、煤けた木の柱に射す斜陽。畳の目に沿って伸びる影。湯呑みに落ちる光の輪。どれもが、光と影のあわいに生まれる美しさです。
WABISUKEの空間づくりにおいても、光を「照らすもの」ではなく、「影を引き立てるもの」として捉える視点を大切にしています。冬至は、その思想を再確認する日でもあるのです。
暮らしの中の小さな再生
冬至を過ぎると、ほんのわずかずつ、昼が長くなっていきます。目には見えないほどの変化ですが、確かに季節は動いている。
この「見えない変化」を信じること。そこに、冬至の本質があるのかもしれません。
たとえば、年末の大掃除も、ただの整理整頓ではなく、「光を迎える準備」として捉えることができます。埃を払い、窓を磨き、空間に余白をつくること。それは、光が宿る場所を整えるということ。
冬至の色、冬至の音
WABISUKEでは、冬至の頃にふさわしい色として「煤竹色(すすたけいろ)」「柚子色(ゆずいろ)」「冬銀(ふゆぎん)」などを選びます。どれも、光と影の境界にあるような、曖昧で、深く、静かな色。
また、冬至の夜に耳を澄ませば、遠くの風の音、湯気の立つ音、障子が軋む音——そんな微かな音が、かえって心を満たしてくれることに気づきます。
境界に立つということ
冬至は、ただ「暗い日」ではありません。
それは、光と影の境界に立ち、これから訪れる「再生」の兆しを感じる日。静けさの中にある希望。闇の中にある光。終わりの中にある始まり。
WABISUKEのものづくりもまた、こうした「境界」に立つ感覚を大切にしています。伝統と革新、実用と詩情、日常と非日常。そのあわいにこそ、物語が生まれるから。
この冬至、どうか一度、灯りを消してみてください。影の中に浮かぶ光の輪郭を、そっと見つめてみてください。
そこに、あなた自身の「再生の兆し」が、きっと宿っているはずです。