年末の台所 おせちの下ごしらえと記憶の味

年末の台所
おせちの下ごしらえと記憶の味
年の瀬が近づくと、台所の空気が少しずつ変わっていく。
冷たい水に触れる手の感覚、まな板に並ぶ根菜の色、湯気の向こうに立ちのぼる出汁の香り。
それらすべてが、「年越し」という静かな儀式の始まりを告げている。
おせち料理は、ただのごちそうではない。
それは、家族の無事を願い、季節の節目を祝うための祈りのかたちであり、
何よりも、記憶の中に積もっていく「味の風景」そのものだ。
「仕込む」という時間
おせちの準備は、一日で終わるものではない。
数日をかけて、少しずつ仕込んでいく。
黒豆を水に浸すところから始まり、昆布を戻し、数の子の塩を抜き、
それぞれの素材に向き合いながら、手を動かす。
黒豆は、ことことと弱火で煮る。
「まめに暮らせますように」との願いを込めて、
ふっくらと艶やかに仕上がるまで、鍋のそばを離れない。
その甘さは、どこか懐かしく、やさしい。
田作りは、かりっと炒った小魚に、甘辛いたれを絡めて。
五穀豊穣を願うこの一品は、かつて田畑の肥料として使われた小魚に由来するという。
小さな魚の一匹一匹に、土地の恵みと暮らしの知恵が詰まっている。
きんとんの黄金色は、豊かさの象徴。
裏ごししたさつまいもに、栗の甘露煮を添えると、
その艶やかな色合いに、思わず手が止まる。
「来年も、実り多き一年になりますように」
そんな願いが、自然と口をついて出る。
台所に宿る記憶
年末の台所には、記憶が宿る。
祖母の背中を見つめながら、手伝いをした幼い日のこと。
「この人参は、少し斜めに切るときれいよ」
「れんこんは、穴が開いているから、先を見通せるの」
そんな言葉が、今もふとした瞬間に蘇る。
料理は、味だけでなく、手の動きや音、香りまでもが記憶に残る。
まな板を叩く音、煮物の鍋から立ちのぼる湯気、
味見をして「もう少しだけ醤油を足そうか」とつぶやく声。
それらが重なって、年末の台所は、ひとつの物語になる。
無理をしない、でも手をかける
現代の暮らしの中で、すべてを手作りするのは難しいこともある。
だからこそ、「全部作らなければならない」と思わずに、
「これは作る」「これは買う」と、無理のない範囲で整えることも大切だ。
たとえば、黒豆やきんとんは手作りして、
伊達巻や昆布巻きはお気に入りの店で買う。
その分、盛りつけにひと工夫を加えて、器や彩りで季節感を演出する。
そうすることで、手間と心のバランスがとれた、あたたかな食卓が生まれる。
味の記憶をつなぐ
おせちの味は、記憶とともにある。
祖母の煮しめの甘さ、父が焼いたブリの香ばしさ、
母がこっそり多めに作ってくれた栗きんとん。
それらは、年が明けても、心の中に残り続ける。
やがて、自分が台所に立ち、誰かのためにおせちを仕込むようになると、
その記憶は、手の動きや味つけの中に自然と現れる。
そしてまた、新しい記憶が生まれていく。
子どもが初めて作った伊達巻の、ちょっと焦げた端っこ。
家族で笑いながら囲んだ、元日の朝の食卓。
味の記憶は、静かに、確かに、未来へと受け継がれていく。
結びに
年末の台所は、忙しさと静けさが同居する、不思議な場所。
手を動かしながら、心は一年をふりかえり、来たる年を思う。
その時間の中にこそ、暮らしの美しさが宿っている。
おせちの下ごしらえは、単なる準備ではなく、
記憶をたぐり寄せ、未来へと手渡すための、静かな営み。
今年もまた、台所に立ち、湯気の向こうに誰かの笑顔を思い浮かべながら、
ひとつひとつの味を仕込んでいきたい。