韋駄天お正と呼ばれた女性 白州正子の美と旅

韋駄天お正と呼ばれた女性──白州正子の美と旅
「私は不機嫌な子供であった。三歳になっても殆んど口を利かず、ひとりぼっちでいることを好んだ」──白州正子の自伝にあるこの一節は、彼女の内なる静けさと、後の激しい行動力との対比を物語っている。
白州正子は、静けさの中に強さを宿した女性だった。華族の家に生まれながら、既存の価値観に甘んじることなく、自らの美意識と直感に従って生きた。その生き方は、現代を生きる私たちに「本物を見抜く目」と「自分の足で歩くこと」の大切さを教えてくれる。
華族の娘から能舞台へ
1910年、東京麹町に生まれた白州正子は、伯爵家の次女として育った。幼少期から能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つという快挙を成し遂げる。能という伝統芸能に、女性が立つこと自体が異例だった時代。彼女はその「禁忌」を、静かに、しかし確かに破った。
能の世界において、彼女は「型」を学びながらも、そこに宿る「気」や「余白」に敏感だった。舞台の上で動くことよりも、動かないことの意味を知っていた。彼女の美意識は、すでにこの頃から「見えないものを見る力」に根ざしていた。
アメリカ留学と白州次郎との出会い
その後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。西洋の文化に触れながらも、日本人としての芯を失わなかった。帰国後すぐに白州次郎と結婚する。互いに「一目惚れ」だったというエピソードは、彼女の人生における直感と情熱の象徴のようだ。
白州次郎は「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれた男。彼の気骨と美意識は、正子と深く響き合っていた。二人の暮らしは、ただの夫婦生活ではなく、「思想の共鳴」だったと言える。
美を求めて歩く──随筆家としての旅
戦後、彼女は随筆家としての道を歩み始める。『かくれ里』『西行』『能面』『私の古典』などの著作を通じて、日本の美、古典、骨董、工芸、そして旅の記憶を綴った。彼女の文章は、ただの紀行文ではない。土地に宿る「気」や「記憶」をすくい取るような、詩的な感性に満ちている。
彼女は、名所旧跡ではなく「名もなき場所」に惹かれた。誰も気づかないような石仏、苔むした道、忘れられた庵──そうした場所にこそ、真の美が宿ると信じていた。
「本物は、静かで、強い」──この言葉は、彼女自身の生き方そのものだ。声高に語ることなく、しかし確かな足取りで、美を探し続けた。
武相荘という暮らしの美学
東京から離れ、町田市の古民家「武相荘」に移り住んだ彼女は、日々の暮らしの中に美を見出した。銀座に染織工芸の店「こうげい」を開き、往復4時間の道のりを通い続けたその姿は、まさに「韋駄天お正」と呼ばれるにふさわしい行動力。
武相荘には、彼女の美意識が静かに息づいている。庭の石ひとつ、柱の木目ひとつにまで、彼女の「選び抜く目」が宿っている。そこには、装飾ではなく「暮らしの中の美」がある。彼女にとって、美とは「使うこと」「触れること」「生きること」だった。
白州正子から学ぶ、今を生きる美意識
白州正子の生き方は、現代の私たちに多くの示唆を与えてくれる。情報が溢れ、選択肢が多すぎる時代において、彼女のように「自分の目で見て、自分の足で歩く」ことの大切さは、ますます輝きを増している。
彼女は、流行に流されることなく、肩書に縛られることなく、ただ「本物」を求め続けた。その姿勢は、WABISUKEの読者にこそ響くものだろう。私たちが日々の暮らしの中で選ぶ器、布、言葉──それらすべてに「美意識」が宿る可能性がある。
白州正子は、過去を懐かしむために旅をしたのではない。彼女は、今を生きるために旅をした。土地の記憶に触れ、古典の言葉に耳を澄ませ、工芸の手仕事に心を寄せる──そのすべてが、「今ここにある美」を見つけるための営みだった。
彼女の文章に触れると、季節の移ろい、土地の記憶、そして人の心の奥にある静けさが、そっと語りかけてくるようだ。白州正子の旅は、私たち自身の「美を探す旅」へとつながっていく。