二項対立を超える発想
二項対立を超える発想
— どちらでもなく、そのあいだに息づくものへ —

私たちは日々、無意識のうちに「二つの選択肢」に追い込まれながら生きている。
正しいか、間違っているか。
伝統か、革新か。
効率か、情緒か。
デジタルか、アナログか。
都市か、地方か。
けれど、京都という土地で長く仕事をしていると、こうした“二項対立”そのものが、実は現実の複雑さをうまく捉えられていないことに気づかされる。
世界はもっと曖昧で、もっと豊かで、もっと揺らぎに満ちている。
そして、その揺らぎの中にこそ、創造の源泉が潜んでいる。
WABISUKEが大切にしているのは、まさにその「揺らぎ」だ。
どちらか一方を選ぶのではなく、二つの価値が交わる“あいだ”にある、まだ言葉にならない気配をすくい上げること。
そこに、文化を育てるためのヒントがある。
■ 二項対立は、思考を「平面」にしてしまう
二項対立の構造は、思考をとてもわかりやすくしてくれる。
白か黒か。
YESかNOか。
選択肢が明確であればあるほど、判断は早く、迷いも少ない。
しかし、創造の現場では、この“わかりやすさ”が時に大きな罠になる。
たとえば、
「伝統を守るべきか、革新すべきか」
という問い。
この問いの立て方そのものが、すでに創造の可能性を狭めてしまっている。
伝統とは、そもそも革新の積み重ねであり、革新とは伝統の延長線上にしか生まれない。
二つは対立しているようで、実は同じ川の流れの中にある。
つまり、
“どちらか”ではなく、“どちらも”であり、さらに言えば“どちらでもない”場所にこそ、本質がある。
二項対立は、世界を平面にしてしまう。
だが、文化も、感性も、ものづくりも、本来は立体的で、時間軸の中で揺れ動くものだ。
■ 京都が教えてくれる「曖昧さの力」
京都の文化は、二項対立を超える発想の宝庫だ。
たとえば、茶の湯。
茶室は「非日常」でありながら、「日常」の延長でもある。
侘びは「不足」でありながら、「充足」でもある。
静けさは「空」でありながら、「満ちている」。
このように、京都の文化は常に“あいだ”を生きている。
どちらかに決めつけず、曖昧さを抱えたまま、そっと佇む。
その曖昧さが、逆に人の心を深く揺さぶる。
WABISUKEが扱うがま口や布小物も、同じ精神の延長線上にある。
「古いのに新しい」
「素朴なのに洗練されている」
「かわいいのに凛としている」
そんな“二項対立では説明できない魅力”を宿すものをつくりたいと、いつも思っている。
■ 二項対立を超えると、世界は「層」になる
二項対立の外側に出ると、世界は急に立体的になる。
平面だった思考が、層を持ち始める。
たとえば、
「機能性」と「情緒性」。
一般的には対立する価値として語られがちだ。
しかし、WABISUKEのものづくりでは、機能性は情緒性を支え、情緒性は機能性を深める。
がま口の“開け閉めの音”は、機能であると同時に情緒でもある。
布の“手触り”は、実用であると同時に感性でもある。
二項対立を超えると、
価値は「層」として重なり合い、互いを引き立て合う。
その重なりが、ものに奥行きを与える。
■ 「あいだ」を感じる力が、文化を育てる
文化とは、明確な答えや正解から生まれるものではない。
むしろ、答えが出ない曖昧な場所にこそ、文化の芽は潜んでいる。
WABISUKEが大切にしているのは、
“あいだ”を感じる力
である。
- 伝統と革新のあいだ
- 実用と情緒のあいだ
- 個と社会のあいだ
- 過去と未来のあいだ
- 言葉と沈黙のあいだ
その“あいだ”にある微細な揺らぎを丁寧に拾い上げること。
それが、文化を育てるという行為につながる。
文化は、強い主張や派手な革新から生まれるのではない。
むしろ、静かで、控えめで、しかし確かな“気配”から育っていく。
■ 二項対立を超える発想は、未来のための感性
デジタルとアナログ。
グローバルとローカル。
これからの時代、二項対立はますます増えていく。
しかし、そのどちらかを選ぶ必要はない。
むしろ、選ばないことこそが、未来の感性になる。
WABISUKEは、京都の文化を現代に翻訳するブランドとして、
二項対立を超える発想を、ものづくりと文章の両方で体現していきたい。
それは、単なる中庸でも、折衷でもない。
どちらかを否定するのでも、どちらかに寄りかかるのでもない。
二つの価値が交わる場所に立ち、
その“あいだ”に流れる静かな気配をすくい上げること。
そこに、未来の文化を育てるためのヒントがある。
■ 結びに
二項対立を超えるとは、
世界を曖昧にすることではなく、
世界を豊かにすることだ。
白と黒のあいだには、無数のグラデーションがある。
そのグラデーションを感じ取る感性こそ、
WABISUKEがこれからも大切にしていきたい“文化の種”である。